サンガの建設110
”結局自分の事しか見えていなかったのかなぁ”
先日、「外見は女の子として生まれたが、本質は男の子なので性転換された方のお母さん」と話しました。
親としてこの事実をどのように受け入れていけば良いのか、孫に会えると思っていた夢がなくなったことなど、当事者でなければ分からない憂いを語られました。
その反面で、向き合い、聞き合う事によって、どのような形であっても、家族である事の絆が強く深くなったことも語られていました。
しかし絆が深くなっても、子どもの生き方や中途半端さに歯がゆさを感じた時に、未だに子どもの事実を受けとめきれず、全否定してしまう自分自身がいる事へのもどかしさに身が縮む思いをする時があると述懐されていました。
私はお母さんの話しを聞いただけなので、お子さんの気持ちや抱いてきた葛藤などは聞いていませんが、その親子の間には、「事実を受けとめていく者(親)」と、「事実を生きる者(子)」との乖離があります。
どちらも一生懸命なんです。
しかし自分自身に一生懸命であればあるほど、他者の声が聞こえなくなってしまいます。
「私は頑張っている、自分は正しい」と執着した瞬間、関係が乖離し、自分の事も他者も見えなくなります。
この乖離の原因に目が向かなければ、その先には大きな悲劇(正しさの奪い合い)が待っています。
そのお母さんは、日頃の思いや愚痴を言いつつ、「必死で受けとめようとしている自分」と「事実を背負って生きている我が子」を考えられたのか、「結局私は自分の事しか見えていなかったのかなぁ」とつぶやかれました。
どのような問題であっても、自分自身を見る眼(まなこ)を頂けなかったら、家族との、友との、また国同士との距離が縮むことは難しいのでしょう。