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真宗の伝承 七高僧に遇う 其の百五十

百五十回(12年)を通して、お釈迦様が救われた本願の世界を、自らも生き、そして私たちにまで届けて下さった七高僧の歩みを尋ねてきました。
今回を最終回として聞いていきたいと思います。

存在の満足。

帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)
(無量寿如来に帰命され)
南無不可思議光(なむふかしぎこう)
(不可思議光に南無され続けていました)

右の言葉は親鸞聖人が書かれた「正信偈」の最初の2句で、救われた感動の言葉です。
しかしこの2句は、親鸞聖人の個人的な感動ではなくお釈迦様を始め、七高僧全員が頂かれた感動をまとめられた言葉です。
言い換えればすべての人が救われた時に出てくる言葉と言っても過言ではありません。

人は自分の置かれた状況が思い通りにならなかった時、嘆き苦しみます。
その状況が改善するために努力し踏ん張れれば苦しみも無くなるように思うのですが、状況が変われば、また嘆き悲しんでいるのが人類史始まって以来の事実です。
それはお釈迦様を始め七高僧も例外ではありませんでした。
しかし善き人との出会いによって、苦しみの本は「状況」ではなく、「本当に自分の心を知って喜んでくれる者も共に苦しんでくれる者もいない」という存在の満足を求めている事に気づかされ、初めて自分の歩むべき道に出遇えた感動が最初の2句になっています。

如来より頂いた私

存在の満足を求めていた自分自身を善き人(教え)に教えて頂いた限りは、どれだけ状況を満たせても満足でません。
自分でありながら、自分を超えた無量寿・不可思議な自分に出遇えたという事です。
言い換えれば如来(善き人)から頂いた私なのです。
如来(善き人)とは、私の人生に寄り添いつつ、独立させる方です。

如来(善き人)とは、不安を煽り、状況の満足ばかりを説き、救う者を立てて、依存させ、寄りかからせ、一人で歩めない者にする人の事では決してありません。

一人一人が引き受け難い身の事実を生きています。
その私のままで生きて往ける道にしか本当の救いはありません。
歴史を貫いて同じように悩み、感動し、歩まれた仲間に出遇えた感動から始まっているのが「正信偈」なのだと師から教えて頂けた事が私の感動でした。
百五十回有難うございました。

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