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真宗の伝承 七高僧に遇う 其の百四十一

『源空上人(法然上人)』

法然上人は、1217年1月25日80歳で亡くなられました。しかし15年後に「嘉(か)禄(ろく)の法(ほう)難(なん)」という大変な事件が起こりました。

身は無くとも願は生きる

法然上人が亡くなられて15年後の嘉禄3年(1227)、民衆に開かれた念仏宗は、上人在世の頃よりも弘まっていました。
毎月の命日(25日)には知恩院において大規模な法要が行われていました。
その事を良く思わない天台宗の定照が、法然上人の主著「選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんしゆう)」は間違っているとする「弾選択」という本を出しました。
それに反論する「顕選択」を念仏宗から出版しました。
この争いは泥沼化し、最後には比叡山の僧兵が動き出し、法然上人の遺骸を鴨川に流す為に、廟堂(墓)を破壊するまでになりました。
情報を受けた弟子たちが先回りし遺骸を移動し事なきを得ました。
しかし著書の版木が燃やされたりと天台宗の圧力が収まらないので、火葬し荼毘に付し縁のあった寺院に分骨されました。

亡くなって15年が経っても、その存在が疎まれると言うことは、それほど「選択本願念仏集」が本質を突いた内容だと言うことです。
そうでなければ放っておけばいいのですから。
しかし批判された書物の中には、放っておけない物もありました。
明恵が書いた「摧邪輪」という書物です。
親鸞聖人の主著『教行信証』は、この「摧邪輪」が持つ無明性を正すために書かれたと言われています。

何故、法然上人はそれほどまでに敬われていたのでしょうか。
それは誰に対しても平等に分け隔て無く向き合われる歩みに、皆、阿弥陀如来の様な優しさを感じていたのでしょう。

源空勢至と示現し
あるいは弥陀と顕現す
上皇群臣尊敬し
京夷庶民欽仰す

源空(法然)上人は、勢至菩薩の様に寛容で、阿弥陀仏の様に苦しみの本(もと)に寄り添ってくださるので、上皇や大臣、都の人や地方の庶民に至るまで、あらゆる人々に敬われ仰がれました。

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